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教会紹介

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信者会館.JPG

信者会館

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納骨舎

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公 園

天理教渡瀬分教会は、福岡県みやま市高田町にある教会です。

その歴史は、120年以上も前にさかのぼります。

 

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​明治27年の2月頃、山門郡海津の植田鶴松宅に立ち寄った呉服商から、「八女郡の新庄には、病救けの珍しい神様があるそうな」という話を聞いた同家祖母は、実家の岩田村田尻の甥、野田初太郎が喘息の病気で悩んでいたのを思い出し、さっそく参拝を勧めました。

初太郎の妻タミは、尋ね求めて、新庄の服部佐市宅に参り、同所の香月角之助(南筑分教会初代会長)より神一条の話を聞き入信します。

 

以来、本人や親族などのにをいがけ(布教)により、みるみる教勢は伸び、わずか二年の間に、信者戸数300を数えるにまで至りました。

その中に、坂口養作・文造親子が、文造の子供・新一(のちの三代会長)の異常体質の病気から一家をあげて入信しています。

 渡瀬分教会は、明治29年6月16日、福岡県三池郡岩田村田尻の地に、日奉出張所(担任:福原惣太郎)として始まりました。
 しかし、この年は、内務省秘密訓令(国家神道路線から外れるとされる宗教思想を弾圧する政策)が出た年で、本部のお許しを戴いたものの、官憲の圧迫は大変激しく、地方庁の認可はおりませんでした。

 明治34年には、土地・建物の買収など、体制を整えて三度目の出願をしますが、またも公認に至らず却下されてしまいます。布教活動はおろか、神様を祀ること、また、参拝さえも困難な状況になるほど、官憲の妨害は激しくなっていました。

 

 その頃、八女郡に設立されていた日向神布教所(南筑部属 / 担任:金納和三郎)は、既公認でしたが、すでに有名無実化していて、建物も損壊し、地方庁より認可の取消しを受ける状況でした。整理の都合もあり、明治36年にこれを渡瀬の地に移転し、日奉出張所が名義を借用する形となります。

 そして、明治39年、「日向神布教所」を「渡瀬出張所」へと昇格・改称し、「金納和三郎」から「福原惣太郎」に担任変更して、名実ともに元に復して、明治40年に鎮座祭が執行されたのです。

 

 教会設立までの道のりももちろんですが、設立後の様々な節の中も、心倒さず、純粋に信仰の灯を燃やし、道を繋いでこられた先人先輩方に、感謝の念を抱かずにはおれません。「たすかりたい」から「たすけたい」という心の成人は、大きな教会名称の理の栄を見ることになり、現在、渡瀬分教会の部属教会は、国内外を含め、37か所になりました。感謝の心を勇み心に変えて、日々を歩ませて頂きたいと思います。

《天理教渡瀬分教会略歴》

  • 明治29年6月16日 三池郡岩田村田尻1149番地に、日奉出張所を設立する。

           【担任:福原惣太郎(のちの筑紫大教会4代会長)】

  • 明治36年2月28日 三池郡二川村大字下楠田1484番地(現在地)に移転する。

  • 明治39年2月24日 八女郡に設立されていた日向神布教所の名義を借用する形で

                                   渡瀬出張所に改称。

            担任を金納和三郎から福原惣太郎に変更。​

  • 明治42年3月20日 渡瀬支教会に昇格改称。

            坂口新一会長任命。

  • 昭和20年7月9日 神殿落成鎮座祭、翌10日奉告祭執行。

  • 昭和21年3月15日 坂口道興会長任命。

  • ​昭和51年8月6日  三代真柱:中山善衛様ご巡教。(参拝者1400名)

  • 昭和55年8月27日 天理教祭儀式にて、高田町二川校区戦没者合同慰霊祭執行。

  • 昭和61年10月26日 坂口道彦会長任命。

  • 平成8年5月19日  創立100周年記念祭執行。

  • ​平成30年4月    信者会館ふしん完成。

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